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吉田健一『本当のような話』(1994年、講談社文芸文庫)

 はじめての吉田健一。茂の息子だということも初めて知った。気品薫る、シンプルに美しい小説である。すっごく読み辛いし、わけわからない代名詞を多用した文章もいくつもあるのだけれど、夢の中で螺旋階段をくるくると降りて行く感じが心地よかった。

「例えば子羊を焼いたのに薄荷のソースを掛けて食べる料理があって、これをそこの料理人が自分で作った時は民子は道の両側に生垣が続く英国の南部を思い出した。それは薄荷の匂いとともに羊自体の匂いの問題でもあって他のものが作ったのが持って来られるとただの羊の肉だったからそこの料理人、或はchefが自分で料理をするのに材料も別に取ってあるのだとした考えられなかった。その日はその料理人が焼いた子羊だったから序に民子が飲んだものも書いて置くべきかも知れない。それはメドックだったが料理人が推薦したメドックだった。英国に飲むものがないと思ってはならなくてボルドーブルゴーニュもロンドンに対してパリと同じ距離にあり、ボルドーは曾てはアキテーヌ公爵領の一部をなしていて英国国王が何百年かの間アキテーヌ公を兼ね、そういう関係で今でもパリに碌な酒がなくてもロンドンに行けばある。併し民子はそんなことよりもその酒が日光をその雨の日に飲んでいるようだと考えていた。そう言えば子羊は春のたべものである」(66頁)

 

「『その地味を汚いっていう意味に取ったんじゃぶち壊しになるんですよ。昔の東京の空気は澄んでいて、だからもっと綺麗にそういう色をしていたでしょう。あの浮世絵の極彩色に刷ってある女や役者なんてのは嘘ですよ。それよりもどこの何十何景っていうような絵は丁度そういう風に鮮やかに地味でしょう。あの画家達の眼に狂いがあった訳がない。』

 『そういう色恋沙汰をするんですか、』と中川は又西洋の恋愛と日本の恋のことを頭のどこかに浮べて言った。

 『そういう風にしろって言ったって無理でしょう、』と内田さんは答えた。『それがあった後で振り返って見てそう思うんじゃないかって言いたいんですよ。そうじゃなくて、貴方、』と内田さんは言い掛けて酒がいい具合に廻り始めているのを感じると同時に声を抑えた。『今ああいう庭を御存じだっておっしゃったでしょう。そして民子さんは出来れば曇った日っておっしゃった。併しその庭に日が差している所を二人とも覚えていたっしゃるでしょう。秋とか、或は冬の寒い朝とかに、あれは絢爛なものじゃなくてもやはりどこか歌っているものがあった。』内田さんはそう言いながら民子をいつもの癖でその名前で呼んで中川が始めてそれを知ったのではないかと思った。

 『寒い恋でしょうね、』と民子は言って笑った。

 『それならば秋の日溜りでもいいですよ。ただ夏というのはどうもあの蝉が鳴いているのを思い出してね。そうすると寧ろ頭に浮かぶのは魚の洗いを載せたあの何というのか、ガラスの棒を筏のように繋げたものだろうか。』」(114頁)

 

「『何になさいますか、』と民子は台を自分の方に引き寄せてどの酒にするのだろうかと思いながら言った。その壜の列を見て酒飲みの心理に中川は足掛りを得た。それは恐らく民子の好みを示して甘い酒はシャルトル―ズしかなかった代りにコニャックのほかにキルシュもジンも東欧の梅酒もあった。こういう時には何を飲むものなのだろうかと中川も迷った。丹波さんはもういなくて何故かそれが選ぶのをなお難しくしているような気がした。

『貴方がお飲みになるのを暫く見ています、』としまいには中川は言って民子と向き合う形になる長椅子に腰掛けた。

『見せものですか、』と民子は笑いが籠った声で言ってキルシュを注いだグラスを中川の方に挙げた。中川は片手で顎を支えて今の自分には本当に何も飲む必要がないのではないだろうかと思った」(122頁)

 

「併し今の辛口を人肌に燗をしたのでも酒であることに変りはない。そういう見た所は暗い家でも日が中庭から縁側まで差して来ている部屋で飲んでいるのは全くただそれだけのものである為に頭が冴えて来る。併し頭はただ冴えるものではない。そのどこかにも日が差している感じに民子はなっていて、ただそれは春先のではなくて秋の日のようだった。もう一つ民子が気が付いたのは頭がそういう状態にあるとその働きの範囲が拡がって、それは自分の廻りのものが明確に認められるのでそこに一つの中心が出来る為と思われる位にそうしてものの輪郭がくっきりするのが遠くまで及び、その状態で意識されることに際限がなくてそれが交替するということだった。それが時間的にもそうだったから子供の頃のことも思い出されるのだろうか。別に誰でも子供の頃は幸福なものでというようなことでもなくて子供の頃にも人間らしいものを感じることがあり、それまで意識は苦もなく記憶に甦らせてその記憶とともに浮び上るのがその時の状況であることになる。例えば民子はそういう子供の頃にどこなのか恐らくは自分の家の普請場に連れて行かれて棟上げがすんだばかりの家の剥き出しになった木材に差す日光がどこまで澄んでいるのだろうか思ったことがあった。」(140頁)

 

「民子が選んだブルゴーニュ産のには牛乳と木の実が一緒になったとでも形容する他ない独特の匂いがあって一度これを知ればブルゴーニュ産の白葡萄酒に就て間違いようがなくなる。

 それから赤葡萄酒だった。これはボルドーともブルゴーニュともどうとも決め兼ねるもので野鳥にはブルゴーニュが適していてとかこれも通が知っているのか或は兎に角人に言う色々なことがあるが民子はボルドーにして、それはそのボルドーの銘柄には何か日光を飲んでいる感じの清冽なものがあるからだった。そしてその一本を棚から取って料理人に渡して、

『これは貴方の、』と言った。それが客をするのに酒を選ぶ時の夫以来の習慣になっていた。」(196頁)

 

 「『その一杯を楽しんでお暇しましょう、』と中川は言った。内田さんが言う通りに時間の流れは止らないものかも知れなかったがそれでも凡ては終り、刻々に終ってそれを知ることが次の瞬間を準備することでもあった。そのコニャックは旨かった。中川は前に置いてある皿の何か解らないものをもう一つ取ろうかと思い、それでは飲むのが気忙しくなると考え直してゆっくりグラスを持ち上げて光に当ったコニャックの淡い茶色が金色に変るのを見た。これでこの晩がちゃんと翌朝に繫るのだろうかと中川は思った。確かにもしそれが繫らないならば中川の時間の流れは中断されて中川に何かすることが残っていれば、或は今何かあるならばその流れを堰くものを取り去ることだった。そうなるとこれはしなければならないことで又それはやり甲斐があることだった。その気で中川は立ち上る用意をした。」(222頁)

 

辛口のチンザノ、シャルトリューズにキルシュ、メドックボルドーブルゴーニュ、そして黄金に輝くウイスキー。魅力的で、陶酔的なアルコールの名が何度も繰り返され、その度に度数の高い酒に特有の、鼻腔をくすぐるような匂いが薫ってくるような気がする。それは小説全体を通じて、心地よい酔いを感じるような浮遊感を与えている。

登場人物たちも同様で、彼らは皆、血の通った人間というよりは、地上から数ミリ浮いて暮らしているような非現実感があった。同じ上流階級を舞台にした物語でもその辺プルーストなどとは正反対で、プルーストの登場人物たちが、着飾って気取った会話をしていても、その内面の欲望や虚栄は嫌というほど示されているのに対して、民子さんにしろ中川にしろ内田さんにしろ、吉田の登場人物たちは王朝時代のように、どこか春霞のような雰囲気を携えている。まさしくそれは桃源郷的で、肉体のない魂というよりは、魂の抜けた肉体が動物的な本能で優雅に生活をしている風である。その情念や妄執のなさは驚くほどで、亡き夫を愛しながら、もてなしの一部としていささかの躊躇もなく民子が中川とセックスをするところなど呆気にとられてしまうけれど、それが彼女にとっての自然なのだろう。作中で民子は幽霊に譬えられるが、むしろ天女に近いと思う。欲望もなければ、人間的な道徳観念もなく、微笑みをたたえる美しい清潔な生き物のようだ。酒に伴う悪徳が人間に由来し、酒自体はいつでも美しい色と恍惚的な香りを周囲に提供するように。

本当のような話 (講談社文芸文庫)

本当のような話 (講談社文芸文庫)