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金井美恵子・金井久美子『セリ・シャンブル3 金井美恵子・金井久美子の部屋』(旺文社、1985年)

金井美恵子・金井久美子姉妹に初めてお会いしたのは2年前のトークショー*1のことである。それまで、美恵子先生がジュンク堂で行った対談の動画は見たことがあったのだけれど、直接お会いするのは初めてで、とってもドキドキしたのを覚えている。今から思うと何て幸運だったのかしら!美恵子先生だけではなく、久美子先生のお話も聞けただなんて!

それはもう、とっても知的で、優雅で、気品があって、ウィットに富んでて、磨きぬかれた宝石のように美的な会話だった。豊かな知識と、優れた感性と、気品を備えた人の会話を聞くことがこんなに胸が躍ることだと初めて知ったし、それ以後もあんなに素敵な会話をするような人を私は知らない。

そんなお二人のエッセイと対談を集めた一冊。

 

久美子 カフカとかシュルレアリスムとかヘンリー・ミラーとかね。それにしたって、十九世紀生まれの人達がいるわけよね。映画監督もね。子供の読む本て、たしかに反時代的というか、前世紀的なものだよね。まあ、私の場合、子供の時に限ったわけじゃあなくて、今でもそういう傾向があるな(笑)小説に限って言えばだけど。現役の小説家を前にして悪いけど(笑)、今、生きて書いてる小説家の小説を読まなくても、読む本はいっぱいあるんですもの。

美恵子 そりゃあそうだけど。でも、現代の作家の小説も読むじゃないの。

久美子 うん、だからね、小説に現代的問題というか、昔流行った言葉で言うと、アクチュアリティなんかを望んではいないってことなんだけどね。」(「読書の快楽」、31頁)

 

久美子 そうかもしれないね(笑)ボルヘスとは違うけど、マルグリット・デュラスもね。なんかケチついている感じで、読んでると、こう、充実感がないっていう……

美恵子 吝嗇な小説。イメージの過剰さを際立たせるはずの方法なんだろうけどね。

久美子 そう! 手垢にまみれた言葉を削ってね。いわば≪不在のイマージュ≫というものが立ちあらわれるってものなんだろうけど、好き嫌いで言うと好きじゃない。読みながら前のページに戻ったり、読むのをしばしやめて途中でうっとりして、いろいろ自分の記憶のなかで遊んだりするようなね、読み手の自由な時間があって、また続きを読みはじめるっていう、そういう読み方の出来る小説が好きなんだけど、デュラスの小説もボルヘスの小説も、すぐ終わっちゃう。ゆっくりしたというか、ダラダラしたというか、時間が引き伸ばされているような快楽というのがないと思うのね。

 クロード・シモンの小説って、もちろんダラダラしてるわけじゃないけどね。なんとも不思議に魅力的なんだよね。圧倒的に豊かで。」(「読書の快楽」、39頁)

 

「河岸に建った城のなかで、河の流れとその彼方の遠景を眺めて、ただただなんとなく暮していった、幸福なのか不幸なのか、何を考えていたのか考えていなかったのかも皆目わからない姫のあらわれる『沼』や、月の満ち欠けという周期的時間(これは、普通の人生の時間に対して、ほとんど無時間といえるだろう)に閉じ込められてしまった男のでてくる『月』という最近の連作短編小説を、わたしは愛していたが、これ等の小説は、吉田健一が小説を批評する時によく使った、そこに生きて時間が流れている、というだけではなかった。そこには、無時間に閉じ込められてしまった人間の内部の時間がゆっくりと流れているのである。吉田健一が小説家であり、小説を書くということは、そういうことだったのだろう」(金井美恵子「作家の死」、62頁)

 

「しかし、本のことについて書くのはやめておこう。好きで横道にそれてしまった知識の持つ過激さや、左右対称や螺旋といった構造にむけられる氏の偏愛、また偏愛する作家たちについて書かれた『偏愛的作家論』という、どこか庭園めいた本質的に孤独な書物のことも、ここには書かないでおくつもりだ。庭園はひそかな快楽として、そこを孤独に散歩してみればいいのである」(金井美恵子「北鎌倉のユートピア」、85頁)

 

 「一方、イタリアの風景画、横たわって眠っている少女の絵、『美しい日日』など、とりわけ静謐な絵もあります。『美しい日日』は炎の上っている暖炉、暖炉の火を燃やしている上半身裸の少年、しどけない格好で椅子にもたれ鏡を見ている、生意気な表情の少女――それがとても可愛らしいのですが――といったイメージが描かれているにもかかわらず、そして、燃えている炎のイメージの荒々しさにもかかわらず、穏やかな美しさで見る者を魅惑します。暖炉の炎は安定した幸せのイメージでもあるかのようです。

先ほど、子供時代を取り戻そうとする邪悪な意志と申しましたが、この『美しい日日』という絵を見ていますと、それ程激しいものではなく、この絵を描いた時のバルテュスの実際の年齢とは関係なく、老人によって夢見られた絵画、あるいは老人の夢に現れた幼年期という感じがします」(金井久美子「バルテュスをめぐって 魅惑の絵画」、94頁)

 

「ところでバルテュスの絵画は、そういった意味で万人向きの作品とはとても言えないと思います。生殖と労働から免れている子供時代と老年期、性的気配を漂わせながらも、生産的な性からは遠く離れた、荒々しい、または静謐で、時間の線的な流れからは逸脱した、いわば瞬間の永遠性と言ったものを画面に定着してしまった絵画というのは、見る側に、甘美さと同時に、自分の存在に対する不安や恐怖、あるいはある種の抵抗感をおこさせるのではないでしょうか」(同上、96頁)

 

「少女たちは、まるで瞬間の永遠性の光のなかで、うっとりと夢を見ているようです。すっかり自分の身体的な感覚のなかに溺れてはいるのだけれど、その一方で、自分で見つめられる存在、見つめる者を魅惑する存在であることを本能的に知っているといった様子で、どこか身体を堅くしているようでもあります」(金井美恵子バルテュスをめぐって 窓の内と外―――停止した時間」、106ー107頁)

 

トリュフォーは、それを映画作家として不本意なことだと考えるかもしれないが、しかし、犯人が誰だったのか、誰がどうして殺されたのか思い出せない、ということなのだが、映画というものは、それでいいのではないか。そして、この映画は、全ての美しい白黒映画がそうであるように、『黒と白とは、他のあらゆる色彩を己れのうちに要約しているすばらしい色であり、奥義に通じた人びとにしか、それはあきらかにされないものだ』という無邪気ではあるけれど本質的な、いわば一種の信仰、なぜ、そのような信仰を持つにいたったのかを考えれば、神秘的な気持さえ抱いてしまう信仰を、つつましやかな豊かさでもって思い出させるのだ」(金井美恵子「誰よりもゆたかなもの」、140-141頁)

 

美や幸福や快楽に対する鋭敏な感性で言語化される言葉たちのなんて心地のよさ!久美子先生と美恵子先生の書いた、本や作家や映画や絵画に関する文章を読んでいると、こちらまで一緒に何か美しいものを前にしたときの陶酔に似た感情を惹起される。私は、生意気をいえば自分のセンスにはとっても自信があって、私の好きな本も作家も映画も絵画も全部超超最高!って思っているのだけど、それらをこんなに美しく、胸をつくような言葉で表現できたら、と夢に見ざるをえない。

 

美恵子先生のエッセイに、かつて美恵子先生の叔母様が、美恵子先生を少女小説にでてくる賢くて愛らしい少女に似ていると言われていたエピソードがあるのだけれど、誤解を恐れずに言えば、久美子先生も美恵子先生も今でも彼女たちに似ているように思う。巻末の、四谷シモン渡辺兼人との対談で、嫌なものを遠慮なく馬鹿にするところも、幅広い知識を持っているのに全く気取ることもなければ見栄をはらないところも、吉岡実澁澤龍彦などの歴史に名を残す文人たちから愛され可愛がられていたことが伝わるエピソードの数々も、子供の頃に憧れ、そして大人になってからも彼女たちになりたかった、と幾らかの哀しみと共に思い出される彼女たちに久美子先生と美恵子先生は似ているのだ。ううう、好きです。