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ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫) 金井美恵子

 
「『綺麗なことは綺麗だけれども、桃の木が一番美しく見えるのは、果実が熟してクリーム色の部分が赤く色づいて、それが小さな灯りのように木を飾る時なんです。黄金色の産毛に飾られた少女の膚のように、内側から輝いて見えるでしょう。触ると形而上学的な怪我をしそうです』と初老の男は静かに笑いながら答えた」

「『あなたが決して書かなかった部分ーーいうまでもなく、御存知とは思いますが、あなたの書いたのはほんの一部分で、書かれなかった部分のほうが圧倒的に多いのですがーーその、書かれなかった時間の連続性のなかで、ぼくは生きているのではないでしょうか。それにあなたはぼくのことを何も知らないし、ぼくを愛したことさえ、本当はないんでしょうにね』。こんなふうに彼はわたしに話したかもしれない。『あなたは、ぼくのことはわたしだ、とでも言うつもりですか』」

「初めて《被写体》に選んだのが、この崩れかかった時間の標本だったのだから、わたしはあらゆることを、はっきり覚えている。日の短い冬の日などは、墓参りの帰りにすっかり暗くなっていることがあって、そんな時には、一枚の板になって直立している壁の窓のなかに、風に吹かれて流れる紫色の雲と、雲を薔薇色の光で縁取る月と、見えがくれする金星がながめられた」

「わたしは、あらゆる物を、瞬間瞬間ごとに微かに変化する光によって繰り広げられる静止した事物の輝かしい沈黙を、それにむけられるわたしの視線を、すべて写真に写しとりたいと思った。強烈すぎる太陽の光線の反射のまぶしさが、その反射する物体そのものを輝きに包んで見えなくしてしまうことがあるが、そうした光の傷口のような空白も、わたしは写すだろう」

「その日の夕刻列車に乗ってから、もう二度と生きている彼女にあえないのだと考えて、ひろげた新聞のかげに顔を隠して泣いた。あの街を歩きまわって死んでしまった彼女の思い出のために酔いつぶれるべきだったろうか。そんな男の登場する映画を、彼女と一緒に見たこともあった。わたしは自分が彼女を激しく恋していることを唐突に理解する。列車が轟音をたてて鉄橋を通過し、黄昏の最後の淡い白さが夜のなかにのみこまれ、丸い桃色がかった月が昇りはじめる。

それを思い出した時、というより、その月を見た時、わたしは今自分が彼女と一緒に道を歩いていることに突然気づいて、ひどく狼狽した」

「なぜなら、母はわたしの覚えている限りいつも二階の南に面した障子越しに濾過されたほのかなみかん色の陽の射し込む部屋で寝ているか、階下の居間の藤椅子にくすんだ薔薇色の毛布で膝を覆って横たわっていたのだから。長い長い無限につづくかと思われる午睡の薄明――りんごの絞り汁のような色をした半透明でもの憂い微かに熱っぽい光――がわたしの母をいつでも取りまいていた。わたしは家の薄暗がりのなかをいつでもしのび足で歩きまわる。りんごの絞り汁のような甘酸っぱい午後の光のなかで、自分の手脚が同じ色に染まるのを見ながら、今自分は水のなかを泳いでいると思った」

「そうやって、虚ろに眼をさますたび、部屋の湿気と鋭く鼻を刺激するにおいを熱で腫れぼったくなっている皮膚全体で触知するが、それが一晩の間のことだったのか、一週間だったのか、一ヶ月だったのか、一年だったのかわからない。空虚で厭わしいどんよりとした空間が熱を広げ、熱のなかの眠りが時間を空間のなかに押し広げ、時空の境界のない薄明が、際限のない浸水を生ぬるく濡れた粘膜のように皮膚全体にこすりつけられる」

「東に面した窓のあるこの部屋は、午前中だけあふれるように光が差し込み、窓の外の運河の水に反射するゆらめく光が水のように氾濫して、水面の反射光のちらちら動く無数の光の斑――水面の波と運河の水の流れを忠実に映し出している反射光――が天井と壁を一面にそめつけてしまう。けれど午後になると、薄明るい淡い光が、長すぎる黄昏か、水の色をした薄明のように充たされ、なまあたたかい体臭――彼女の汗ばんだ身体から、少し苦味のあるヴァニラのにおいが熱い蒸気のように立ちのぼる。欲情した霧の粒子となって――に包まれて、わたしたちは水の色をした光のうそ寒さに身震いした。
 それから、眠りにあたためられて薔薇色に染まり毛布からはみ出している彼女の裸の肩と腕が、部屋の冷たい空気に触れて、瞬間的に粒立つのを――皮膚が白と薔薇色の斑に淡く染めわけられている――頭を横たえた位置から、一心に見つめる。いや、一心にみつめた」

「抵抗する気持が急速に衰え、というよりか、神経は昂ぶっているし、身体も節々の痛む鈍い痛みでぐったりしているのに、さっきまでの、彼女に出て行ってもらいたいというか、身体に触れられていることの、奇妙に身体から力が脱けて行くような吐き気とまじりあった苛立たしい怒りは、無気力な判断停止のぼんやりした薄明のなかに溶け込み、なすがままに身体のあちこちを彼女に触れられながら、今は、ひたすら、眠りの中へ、夢もなにもない、眼ざめた後では覚えていない夢さえもない眠り――眼ざめた後では、むろんその記憶の痕跡の残っていない、永遠の現在に生きている哺乳動物の夢のような夢さえもない眠り――のなかへ、そう、落下したいだけだ」

「そしてわたしは、<自分が永遠ともいうべき昔から、まったく呆然として、息を呑みながら、彼女を見ているような気がする>
 すると、歌うような調子で――透明な幾重にも交差する線で出来ている彼女の肉体――まるでもう、歌を歌っているような調子で、彼女は奇妙に子供っぽく口ずさむのだ。<わたしを読もうとしては駄目。わたしに触って>それから、彼女は腕を伸ばしてわたしを抱き寄せ、いや、わたしは腕を伸ばして彼女を抱き寄せ、そうして、深い接近のなかで、言葉は言葉以前の、あるいは言葉の彼方へと去り、もう、わたしは彼女を理解するのではなく一致する瞬間をまさぐるが、深い密着の最中で、それにもかかわらず、こうして彼女の内部にいながら、それが決して辿り着き得ないものなのではないかと、それはまるで何か深い迷宮であると同時に、時間の海の上に幾重にも懸けわたされた透明な、四方に開かれた空間なのではないかと、欲情と見分け難い放心でもって、不安に衝きあげられ、彼女を見失う」

「終ってしまったあとで、女はゆっくり身体を離しながら、わたしたちのことを誰も知らないわ、と囁く。わたしを読もうとしては駄目、と彼女は歌うように呟き、そうして、今度は非常にゆっくりと、優しく甘美な声音で、わたしに触って、と言いはしなかっただろうか。あんたは、もう、わたしのものなんだわ、と女は両手を伸して自分の方に彼の顔を向けながら、わけのわからない憎々しい調子で宣言する」

「わたしたちは激しい夕立ちのなかを走って、興奮して笑いながら息を切らし、ずぶ濡れになって薄汚れた、紫色の扉のホテルへ入り、部屋を案内される長い長い廊下を、水浸しにした。激しい雨の後で、すぐに消えてしまう、うつくしい虹が、運河の上にかかるのを、わたしたちは見る。虹のうつくしさに吐き気を催しながら。
 あなたはわたしのものだ、と言って彼女は笑い、わたしは、それを自分の声のように、左耳と右耳の間で聞いていて、そして、やがて、語りはじめる――。彼女の(あるいは、彼女たちの)声をまねて?
 彼女は荒っぽいやり方でわたしの唇にかみつき低い生あたたかくくぐもった声で、わたしたちずっと一緒にいるのよ、と囁く。
 ――ずっと、ずっと一緒にいるの。永遠と言ったっていいくらいずっと一緒に。
 囁きと一緒にまるで言葉がそのまま液体になったように唾液が流れ、わたしは言葉と一緒に彼女の唾液を呑みこむ。そうしながら、激しく震え、どこへ行こうとしているのだろうと、しびれている頭のなかで放心したように考えているのだが、唇に荒っぽくかみつかれたまま、わたしは彼女が誰なのかを、確実に、今では、確実に言ってみることが出来る。もちろん、ここに、《今》彼女は、いないのだが――。いや、ここに、彼女たちは、いないのだが――」

「記憶しているかぎりでは、三十年(四捨五入すれば)生きてきたけれど、その間にドラマティックな出来事など一切なかったはずなのだ。それにしても、わたしは忘れっぽい性質ではなかっただろうか。今、彼女と一緒に組み込まれそうになっているような物語、世間ではざらにある、ありふれた話ではあるが、そうした物語を、繰り返しているのがこもわたしだとはとても思えはしないのだった。しかし、希薄な空気を吸い込み、大きな古いイボタの木の柔らかな新緑が風に吹かれ、優美ななめらかさで枝を揮わせるの見つめていると、わたしは何回も何回もこうして、眩しい光にあふれて透明な水のように希薄で胸苦しい空気のなかーーどこか空虚な物語の甘美な脱力が支配する思考の麻痺する導入部の無時間ーーを、彼女と出発したことがあると確信してしまうのだ」

「わたしが見たのは昼の夢。
薔薇の木が、焼けて、
薔薇の花が、焦げる」

「あたしは疲れ切って、もう生きるのがいやになっていたんだもの。生きていてよかったじゃありませんか。そうかしら。待っても待っても、ずっとあきらめずにあの人を待っていただけで、いっそあの時死んでしまったほうが楽だったんじゃないかしら。さあ、もう眠らなければいけませんよ、母さん。
ありふれた物語だ、とわたしは呟き、それももう終ろうとしているのだと考えて、いくらか気が楽になった」  

ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)

ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)