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大岡信『自薦 大岡信詩集』(岩波文庫、2016年)

詩を読まない人でも名前だけは知っているであろう大御所大岡信の自薦詩集。これまでいくつかの詩と「折々のうた」などコンピレーション詩集は読んだことがあったけどまとめて読むのは初めて。

 

 

「宵闇の石廊は風にむかって開かれ、佇むぼくらの肩に誰かの手がおかれていた。『さあ、行くがいい』。やさしくぼくらを突き放したのは、きっと天使であったのだろう。とまれ、ぼくらはもう振向かなかった。ぼくらの頭に夜の河が流れはじめ、蝙蝠が啼いてわたる……。旅はいつでもこのようにして始まるのだ。

 野原には一面蒼い穴が生まれ、その中でダーリアや羊の瞳や赤児の手が請うようにじっとぼくらをみつめている。ああ、これら、生成の半ばに脈を絶たれたもの……。噴水は転生の予感にみちて舞いあがり、宵闇のある一点に限りなく追いせまり、力尽きてははたと崩れ、芝生を濡らす」(夜の旅、38頁)

 

「もう暗い 雲がぼくらの間に割りこみ

 彼女の乗った水平線は遠ざかるらしい

 沖がくすくす笑いながらはねをとばす

 とつぜん彼女が雲の上から叫びだす

 嘘つきね 嘘つきね あなたなんか……

 

 うろたえて馳せ廻るぼくの頭の上に

 むざんにちぎれた花びらが散る」(二人、57頁)

 

「欲しいのはほんとは時計と磁石ですか

 わたしはしゃがんで漂っている

 なんだかとても気持がいい

 酔っぱらった赤ん坊です

 気分がいいのか苦しいのか

 (あ 椿が散る)

 わからないほど忘我の境で

 炎をひいて滑走してます

 

 けれどほんとは

 蒼い氷にとじこめられて

 眼をあいたままうっとりしている

 わたしの恋よ」(転調するラブ・ソング、68頁)

 

「とてもたくさんの鬼ごっこが流行った

 とてもたくさんの鬼ごっこが流行ったので

 君はほんとに優しい鬼になってしまい

 二度と姿をみせることが

 できなくなった」(マリリン、96頁)

 

「恋の思ひでいつぱいになつて

 空をながめてゐる

 私の思ひのこまやかな粒子が空に満ち

 月がそのなかをわたつてゆく

 恋すれば 月だとて心のうちに閉ざされるのだ

 

     こひしさのながむる空にみちぬれば月も心のうちにこそすめ

                   (とこしへの秋のうた(抄)、188頁)

 

「だがある日、もくねんと新聞ひろげる息子のうなじを

 朝の光が繊く浮かせてゐるのを見る、いとしさ。

 悲しみに似たおどろき。

 ―――Akkun や、君もつひに、徴兵の齢になるか」(調布 Ⅴ、240頁)

 

「だが何てつたつて あの透き徹る

 冷たい清水。天の甘露よ 地の玉露

 なまぬるい水道水は引いてなかつた、そのかはり

 縄で吊るした西瓜が、真赤に冷えて滴つた。

 (中略)

 

 夢の中でも 伸びた藻草がゆらゆら揺れて、

 坊やはやがて この奥の 水の都へ帰つて来るのさ、

 ゆらゆらと頬笑んで 手招きしてゐた」(三島町奈良橋回想、348頁)

 

詩を読むたびに詩を読むセンスに欠けていると落ち込むのだけれど、大岡信の詩はそんな私でもおお、すごいってなるようなある種のわかりやすさがある。わかりやすさ、と言ってしまうと大衆的であるかのように聞こえてしまうかもしれない。王道的だと言えばいいのかしら。誰もが認めざるを得ない力量を大岡の詩から感じる。

 

しかもそれが耽美的な詩でもシュールな詩でも日常を描いた詩でも変わらないことが大御所たる所以だろう。ただ美しい言葉を並びたてるのではなく、突然(あ 椿が散る)という言葉がやってくるなんて!単に優等生的に詩をつくっているのでもなければ衝動的に書きなぐられた気配も大岡の詩には感じられない。すごい。熱をもちつつ冷めているような。

 

彼の詩において水は何度も主題にされているが、その水は天と地を結ぶ。空高いところにある天上のものと地の底に住まう暗いものの間でたゆたうような水。だからきっと飛翔しすぎることもなければ、激しく墜落することもないんだね。どんな詩でも読んでいて居心地がよい。ことばの中で、たゆたう歓喜

 

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)